理想や夢に辿り着く為に
理想や夢の実現の為に何かを犠牲にしなければいけないとしたらどうする?
誰にも言われていないし、犠牲にしたとてどうこうなるわけではないけれど、ふと自分の甘さが気になって我がに向かって自らこの質問を投げかけてみた。
考えた結果この結論に。
- 家族の時間
- 飲酒行為
犠牲にするものが間違っているかどうかは自分が決める事。
他人にどうこう言われる謂れは無い。
今回のこれは、24時間365日、四六時中志して生きていこうしているわけではない。
あくまで平日限定の話である。
当然、誘いを受けた場合は断るような無粋な事はしないし、子どもの行事に参加した場合などは別。
このように例外は別にしても、なぜこの結論に至ったかについて触れていこう。
それは、ここにきて自分の甘さが気になった挙句、その原因が平日の行動にあるのではないかと省みたからだ。
まずは、やりたい事とやらなければいけない事をノートに書き出した。
表題はこんな感じ【信念は計画と実行力で培うもの・・・具体的にやる事と着地日を決める。】

書き出した結果、案の定、日々(特に平日)の過ごし方をもっと濃いものにしなければ、『それなり』の答えと結果にしか辿り着けないだろうと恐怖を感じたというわけ。
『未来からやってきた設定』の今の僕は、我がを鼓舞する存在でなければならないのに、気が付けば現実の自分と設定上の自分とがあっさりと混在してしまっている情けない状態。

甘さ以外の何物でもない。
やったからどうこうなるわけではないが、やらなければ前に進むことはできない。
前に進みたいならやるしか道はないのである。
朗報と言えば、案外『やっている人間』というのは少ないらしいという事。
やったもん勝ちとまでは言わないが、やった結果勝つ可能性が少しでも上がるならやる方を選ぶ。
成果や結果を短時間で望むのは無理があるが、少しでも早く成果を上げたいとなればなおさらだ。
こんな風に平日の我がの事を見直していくと今のままじゃ全くダメだという事に気が付いたというわけ。
しかし、掲げただけでは絵に描いた餅。
参考書を買って満足してしまうようなもの。
実際に、実現可能なのかを考えてみようと思います。
犠牲にするものを掲げた後はできるかどうか。
何かを犠牲にしなければならないのなら?
このように我がに問いかけた結果、前述の結論に達したわけだけど、できるのか?
まずは、家族の時間について考えてみよう。
家族の時間を犠牲にする。
実のところ、この件に関しては、今の状況と大差無いと考えている。
なぜなら『時間を掛ける。』というパワープレイで仕事を推し進めている僕は、深夜遅くまで会社事務所で仕事をしている事が多く、この時点で既に『家族との時間』を犠牲にしているからだ。
なので大きく掲げているように見える一項目目は、変わらぬ日常に過ぎないというわけ。
今やった結果が、家族のこれからに左右するのであれば、僕はやる道を選ぶ。
当然、平日の時間を一緒に過ごす事は少なくなるが、メリハリさえつければ、子ども成長も見逃すようなことにはならないと思っている。

家族のルールは家族で決める。
家を守ってくれている家族には幸い近くに頼れる人がいるし、僕自身、有事の際は、マッハで参上できる体制を整えている。
犠牲といえば犠牲だが、そうで無いと言えば違うとも言える。
とりあえず『家族の時間を犠牲にする。』という事は、今とさほど変わっちゃねぇって事。
一線で働く男にとってはごくごく普通の光景である。
唯一大切にしているのが、時間は犠牲にしているが、家族ファーストであるという事。
このことだけはいつまでも大切にしていかなければ本末顛倒となるのは言うまでもない。
毎晩楽しみの晩酌を無くす。
この記事を執筆している36歳の自分程度はまだまだ小僧の域を脱しないが、今よりずっと若い頃。
それこそ20代のうちに無茶なハシゴ酒をしてきたおかげで、平日に飲み歩くような事はなくなっている。
体力の衰えや金銭的な問題もあるだろうが、なによりもそこに楽しみを見出さなくなったのだ。
ある意味では、大酒を飲んで後悔するようなことを回避している自己防衛というわけ。
それよりも自宅でゆっくり気兼ねなく飲む方が楽しくなっているのである。
家なら粗相を起こすような事もないし、起こしたとしても他人に迷惑を掛ける事はない。
見栄や虚勢を張るような事もないし、トラブルに巻き込まれるような事もない。
『君子危うきに近寄らず。』などと洒落たものではないが、平和的な飲み方を好むようになっているのである。

だが酒が大好きだ。
外に出ない代わりに、家で飲む酒が楽しみで、本当に大好きなのだ。
毎日の晩酌は、日々を乗り越える原動力といっても過言ではない。
なので今回新たに追加した『飲酒行為』を犠牲にする事は今の僕にとってはかなりハードルが高いと思っている。
朝食も昼食も取らない一日一食制の僕は、毎日、晩メシと晩酌を楽しみに日々気張っている節がある。
※晩メシ朝メシを実践している日は別。
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そんな人間から晩酌を取ろうというのだ。
犠牲以外に他ならないし、そもそも出来るのか?という疑問が付きまとう。
こんな風に実践前の今の僕にとっては犠牲にしか思えないし、我ながら正直、無理難題を掲げているとすら思っている。

だが本当にそうなのか?
そもそも毎日の晩酌が『日々を乗り越える原動力』なのか?
考え方や見方を変えてみると案外そうでもなかったりする。
そもそも何故飲酒行為を犠牲にしようと考えたのかと言うと大きくがこの理由だ。
- いい加減に身体を絞りたい。
- 飲酒の寝落ちが勿体ない。
物事を成し遂げるにあたって、『寝落ちする。』というのは非常に勿体なく無駄な行為だと思う。
寝落ちした時は疲れも取れにくいし、ド近眼の僕の場合、うっかりコンタクトレンズを付けたまま寝落ちしようもんなら寝たことすらも台無しになってしまう。
更には、飲酒をすることで、ついついツマンでしまう肴。

これじゃ一向に身体が締まらねぇわ。
ほんでから、ツマミを食べなければビール腹にはならない・・・なりにくい・・・といってもさ。
あるだろカロリー・・・ビールにもさ。
毎日缶ビール(発泡酒)を4.5缶も飲んでいてカロリー摂取過多じゃないわけがない。
これは諸悪の根源だよ。
さらに自転車通勤での帰宅後すぐの飲酒。
超もったいないことをしているはずだ。
せっかく身体が燃焼モードになっているのに、遮断する形を自ら取っているのだ。
欲望に負けた結果、かなり非効率な事をしでかしているのである。

これが日々の原動力だって?
禁酒こそが、原動力になるような気がしてきた不思議な状況に陥っています。
・・・良い傾向かな。
飲酒に充てていた時間を他の事に充ててみよう。
それこそ腹筋の時間にでも充てた方が明日への糧となるのではなかろうか。
好きなものをやめてみる
何かを犠牲にするなら、自分の好きな事をやめることから取り掛かるのが入りやすい。
僕で言えば、特に今回は平日の禁酒。
家族との時間も当然大好きだし大切にしているけれど、今に始まったことではないし、そもそもこれは家族の理解と同意によるところが大きい。
- 毎日会っていた恋人だろうが、事情を説明して会う機会を減らす。
- その代わり、会える週末の時間を濃いものにする。
信念があって取り組もうとしている事を邪魔する恋人なんて恋人とは言えないと思うわ。
僕だって、本当は毎日定時に帰って、みんなで食卓を囲ってゆっくり過ごしたい。という願望はあるっちゃある。
しかしあいにく今はその時期ではないのだ。
もちろん小さな子どもがいるうちはこう言う人も多い。
『この時期は今しかないよ!』
そんなことは分かっている。
だけどそれを理由にして過ごした結果、何かを出来ずに後悔を口にするのなんてこっちから願い下げ。
子どもの選択肢を増やすのも親の務めだろ。
我がのせいで、子どもの選択肢が減るだなんて絶対に嫌なのである。
しかもそれが分かるのは、いつだって土壇場なんだ。
子どもに押し付けるつもりはサラサラないが、親としてガキの為の準備をしておくのは当然の事であろう。
このように家族との時間を犠牲にするというのは、ある種、好き好んで選択をしている事。
しかし、飲酒の事となれば、完全に嗜好品をシャットアウトしていくのだ。
何かを犠牲にせよ!という事であれば、好きな事を辞めてみるのが手っ取り早い。
欲しがりません勝つまでは
戦時中は、国民精神総動員という政策が取られていたそうだ。
要約すると『国家のために自己を犠牲にして尽くす国民の精神(滅私奉公)を推進した運動』
Wikipediaによるとこのような標語があったとされている。
「欲しがりません勝つまでは」
Wikipedia -『国民精神総動員』より
「ぜいたくは敵だ!」
「日本人ならぜいたくは出来ない筈だ!」
「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」
「遂げよ聖戦 興せよ東亜」
「聖戦だ 己れ殺して 国生かせ」
「進め一億火の玉だ」
「石油(ガソリン)の一滴、血の一滴」
「全てを戦争へ」
「東條首相の算術「2+2=80」
戦時中とは言え、国を挙げてこういう精神を推奨し実施していたというのには、頭が上がらないし、戦争の恐ろしさを垣間見る事ができる。
何かを犠牲にした結果、今日の日本があると思えば感慨深い。
例え戦争に負けたとしてもだ。
戦争を知らない僕みたいな小僧がそれについて言及することはできないが、現代でも使える標語だと思っているのが二つある。
- 「欲しがりません勝つまでは」
- 「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」
本来の意図や意味とはかけ離れてしまうかもしれないが、自分なりに解釈すれば現代でも通用するし、支えにもなる言葉だと思っている。
お金なんかは、手の上に乗ってようやく実態が生まれてくるものだが、気が付いていない人も多いことだろう。
何事も事を成して、我が目で見届け、あげくに周りが証明しない限りは自分のものになんかなってはいないと思うんだ。
自分のものになってから、ようやく我が欲の『実態』に手を付ける事が出来るという事。
それまでは、ただただ自分の欲をものにする為に邁進していこうぜ!って話。
※この時代で言えば、そもそも欲をかく事すら禁じていたのだろうけど・・・。
当然、辛抱や痛みを伴う事もあろうが、ちゃんと手に乗ってない欲にうっかり手を付けると大変な事になってしまうぞ。という戒めでもある。
我がを鼓舞してくれて自制もしてくれる。
戦後の日本人の勤勉さや底力の原動力とも言える言葉だと僕は思っている。
反対に言えば、現代の日本人が忘れかけている精神とも言える。
旅行なんかも人の情報を見れば行った気になれるでしょ。
高級車だって細部まで拡大して写真で見れるし、エンジン音だって聞くことができる。
このように例え、手の上に乗っていないとしても、手に入れた気になることができる。
我慢もせずになんでも目の前に現れる事を不思議に思わないといけないと思うんだ。
だからこそ今、自ら選んで犠牲を払ってみようと決意した次第である。

正解かどうかなんて知らないよ。
これも工夫の一つ・・・・できない。実らない。結果が出ない・・・・。
足らぬ足らぬは工夫が足らぬ・・・・。
まぁこういうわけだ。
平日は禁酒!金曜日は飲む!
飲まない人にとっては、なんてことなかろうがな。
人それぞれ。
禁欲がデカいパワーを生み出すかもしれないよ。
ギャランでした。
本記事の執筆者は私、ギャランです。
言わずと知れた芸能人より芸能人。
中学受験・高校留年・就職・起業・出戻・結婚・離婚・再婚・愛娘の死・個人民事再生・不妊治療etc...
経験してから我がを知る。
バカは死ななきゃ直らない。なってみやがれこのバカに。
『パパの子どもで良かったな!』
いつまでもこう言われ続ける親父を目指しています。
オリジナルレイクスタとは僕の事。